今日は彼岸の入り。
あいにくの終日雨模様です。
昨年の彼岸期間は雨の日もありましたが、
だいたい晴れ曇りだったようです。
予報を見る限り、今年は曇り雨模様 ><
秋晴のすがすがしい季節にな~れ !!
今日は彼岸の入り。
あいにくの終日雨模様です。
昨年の彼岸期間は雨の日もありましたが、
だいたい晴れ曇りだったようです。
予報を見る限り、今年は曇り雨模様 ><
秋晴のすがすがしい季節にな~れ !!
無常は無我の別名です。
ものは時間的にいえば無常であり、
空間的に言えば固定的同一性をもたない、つまり無我なのです。
無常で、独立した自性をもたないのは、物理的現象だけのことではなく、
たとえば、われわれの身体のような生理的現象も、
またたとえば、感情などのような精神的現象についても同じことがいえます。
以上はティク・ナット・ハンという方の著書から写しました。
難しいことはよくわかりませんが、なるほど面白いなと思い掲載しました。
無我という表現を理解するためには、仏教が説く無常という概念も
考察しなくてはなりません。
すべては無常です。あらゆるものはたえず変化しているからです。
何ものも連続する刹那(想像しうる時間の最小単位)にわたって
同じであることはできません。
二刹那というごく短い時間においてさえも、
みずからの同一性を維持できないのは、
ものがとどまることなく変化するからです。
みずからの同一性を固定する能力がないがゆえに、
ものは無我であるといわれるのです。
つまりものには絶対的同一性(我)がないのです。
固定的な同一性をもっていないがゆえに、
いまの刹那のAは、もはや前の刹那のAではないのです。
AがAではないとというのはそのためなのです。
竹脇無我さんの話じゃありません ^^
無我夢中でもありません ^^;
数多くのお経が中国大陸を経て伝わったせいで、
仏典(お経)の中の漢字は意味が解り難いですね。
仏典にはすべての現象は無我をその性質としているということが、
しばしば述べられています。
ものには「我」が無い(一切諸法無我)。
これが意味するところは、何ものもそれ自体のうちに絶対的な同一性
(他と無関係にAがAであると言いうる性質=自性)をもっていない
ということです。
これは、形式論理の基礎になっている同一律を拒否するということです。
同一律に従えば、AはAであり、BはBでなければならないし、
AはBであることはできません。
それに対して無我の教義は、AはAではなく、BはBではない、
AはBであることができるというのです。
これは人々にショックを与え、自分たちの考え方を
再吟味するよう促します。
つづく
好きな言葉に
春有百花秋有月 春に百花あり 秋に月あり
夏有涼風冬有雪 夏に涼風あり 冬に雪あり
若無閑事挂心頭 若し閑事の心頭に挂ること無くんば
便是人間好時節 すなわち是れ人間の好時節
と言うのがあります。
台風が近づいてるのに、それどころじゃないですが...
でも四季折々のある日本ならではで、
閑事の心頭に挂ること無くんば、それも好時節なのかもです。
まぁ現実は、閑事が心頭を埋め尽くしていて、
それを追い出すなんて人間業じゃないですね^0^