また台風 ><

台風25号が近付いています。

今回は日本海を通過する模様なので、

24号の時より風雨が強くなりそうで心配です。

いつものように明日には準備を整えます。

 

さて、例年の台風の数が気になり調べてみました。

 

2017年は全部で27個

7月が8個、8月が5個、9月が4個、10月11月が3個ずつ。

今年はと言えば、

7月が5個、8月が9個、9月が4個で、現在25個です。

2013年の10月は7個も発生していて、全部で31個 !

 

こればかりは、あまりたくさん発生してほしくないですね。

強風

おはようございます。

今朝の明け方まで、まるで台風のような(台風か)強風が吹き荒れました。

墓園近辺は雨もそれほどではなく、風だけが心配でした。

出勤すると案の定、枯れ枝や落ち葉が散らかっていました...><

スタッフの頑張りで、間もなく通常に戻ります ^0^

 

供花の飛散もほとんどなく、どうぞ皆さまご安心ください。

引き続きの台風25号(次から次と..プンプン)が心配ですが、

またご報告したいと思います。

 

朝晩が秋らしく涼しくなってきました。

気持ち良い季節ですが、気候の変わり目、どうぞご自愛専一に。

 

管理事務所

怪しい台風24号が,30日~1日にかけてやって来そうで心配です ><

今日は晴天の上に涼しい風が吹いているので、気持ち良いです。

 

さて、当墓園の管理事務所は年末年始の10日間を除き、

朝9時から夕方4時まで毎日常駐しております。

常駐管理者のいない墓園も散見しますが、

ちょっとしたことでも気軽に声をかけて頂けるよう、

常駐しておりますのでご安心ください ^0^

 

何卒よろしくお願い申し上げます。

 

馬鹿

琅琊榜ロスを味わった後、日本にもなじみ深い逸話の宝庫として

項羽と劉邦King’s warという中国ドラマを楽しんでいる。

 

秦の2代皇帝・胡亥の時代、権力をふるった宦官の趙高が、自分の味方と敵を判別するため一策を案じた。彼は宮中に鹿を曳いてこさせ『珍しい馬が手に入りました』と皇帝に献じた。皇帝は『これは鹿ではないのか』と尋ねたが、趙高が左右の廷臣に『これは馬に相違あるまい?』と聞くと、彼を恐れる者は馬と言い、彼を恐れぬ気骨のある者は鹿と答えた。趙高は後で、鹿と答えた者をすべて殺した。

 

という馬鹿の由来ともいえる場面を見た。

そこで、馬鹿の由来を調べてみた ^^

 

サンスクリット梵語)説  最も有力な説である。
サンスクリット語で「痴、愚か」を意味するmohaの音写である莫迦の読みからくるとする説。僧侶が使っていた隠語であって馬鹿という表記は後の当て字であるとする。江戸時代の国学者天野信景が提唱した説であり、広辞苑をはじめとした主要な国語辞典で採用されている。
同じサンスクリット語のmahailaka(摩訶羅:無知)(新村出石黒修)、あるいはmaha(摩訶:おおきい、偉大な)を語源とする説もある。
バングラデシュ公用語であるベンガル語でも「バカ」という単語は日本語と同じく愚かな者を指す。ベンガル語サンスクリットを祖語とする。

 

どうやらこの辺のところが定説のようで、「馬鹿」のうち鹿の「か」は訓読み(日本語)であり、中国風の音読みで馬鹿を「ばか」と読むことはできないなどの問題があるようで、項羽と劉邦のお話は関係ないようですね。

 

お彼岸を迎え、お墓参りの方々で賑わってます^^

 

 

秋の彼岸です

今日は彼岸の入り。

あいにくの終日雨模様です。

昨年の彼岸期間は雨の日もありましたが、

だいたい晴れ曇りだったようです。

予報を見る限り、今年は曇り雨模様 ><

秋晴のすがすがしい季節にな~れ !!

無我 おしまい ^^;

無常は無我の別名です。

ものは時間的にいえば無常であり、

空間的に言えば固定的同一性をもたない、つまり無我なのです。

無常で、独立した自性をもたないのは、物理的現象だけのことではなく、

たとえば、われわれの身体のような生理的現象も、

またたとえば、感情などのような精神的現象についても同じことがいえます。

 

 以上はティク・ナット・ハンという方の著書から写しました。

 難しいことはよくわかりませんが、なるほど面白いなと思い掲載しました。

 

 

無我 つづき

無我という表現を理解するためには、仏教が説く無常という概念も

考察しなくてはなりません。

すべては無常です。あらゆるものはたえず変化しているからです。

何ものも連続する刹那(想像しうる時間の最小単位)にわたって

同じであることはできません。

二刹那というごく短い時間においてさえも、

みずからの同一性を維持できないのは、

ものがとどまることなく変化するからです。

みずからの同一性を固定する能力がないがゆえに、

ものは無我であるといわれるのです。

つまりものには絶対的同一性(我)がないのです。

固定的な同一性をもっていないがゆえに、

いまの刹那のAは、もはや前の刹那のAではないのです。

AがAではないとというのはそのためなのです。